コラム

原田七重さんのこと

harada
 

「ヨーロッパの森に住んでいる、クマさんの家にある食器のイメージなんです」。

 

どんなイメージで、うつわ作ってますか?

定番の質問に、う~んう~んと唸っていた原田さんが

ややあって、意を決したようにポツリ、言いました。

一瞬の沈黙ののち、わたしと武井さんは顔を見合わせ

「な~~るほど」と得心しました。

 

harada

 

山梨の塩山に原田七重さんを訪ねたのは、10月の半ば。

「お昼を一緒に食べましょう」。

「じゃあ、武井さんも誘ってみようか」。

同じ塩山に住みながら、出会ったことのない原田さんと染織の武井春香さん。

せっかくだから、ということで合流することになったのです。

 

塩山駅で原田さんのクルマにピックアップしてもらい

まずは、武井さんのお家にほど近い恵林寺で待ち合わせ。

夢窓国師が開山し、武田信玄公の菩提寺でもある名刹「恵林寺」。

「う~ん、いいとこですね~」と感心している原田さんに

あれ、塩山に住んでいるのに…?と驚くと

聞けば、ここに移ってまだ4年目とのこと。

「あまり家から出ないんです。ここへ来たのは、2度目かな?」

 

harada

 

じつは,原田さんは東京生まれの東京育ち。

ご実家は池袋の近くにあります。

以前、塩山を訪れたご両親がこの地を気に入って

「老後の住まい」を建てられたものの

都会生活を満喫しているおふたり。一向に移り住む気配なく

ご主人も画家という、自由業の原田さん夫妻が

縁もゆかりもなかったこの塩山に住むことになったそうです。

 

harada

 

原田さんは、多摩美の彫刻科出身。

卒業後は「ガテン」を見て、テレビの大道具の仕事をはじめ

いくつかのバイトをしたあとに、コンピューターで地図を作る仕事に就きました。

「やきものも好きだったけど、年とってからの趣味にしようと思ってたんです」。

けれど、仕事のストレスから、おいおい取りかかろうと思っていた陶芸を

「もう、やってみようかな、と」始めてみたら

「とてもたのしかったんです」。

 

harada

 

何もかも忘れて、ひたすらろくろに向かう時間。

それが、原田さんに「美大受験でデッザンに集中したときのような」

心地良さを思い出させました。

「ろくろが止まってるように見えました。

かたちを作ることよりも、集中することがたのしかったんです」。

 

やがて、陶芸教室に物足りなさを感じるようになった原田さんは

「収入が少なくなっても、自分でできる仕事がいいと思い」

瀬戸の窯業専門校に入ります。

そして、一年の訓練ののち、卒業生の多くは

窯元に就職か、陶芸家に弟子入りという道に進みますが

原田さんは自分でやってみることに決め、塩山に居を移します。

 

harada

 

「塩山に来たのは前のワールドカップの年でした」。

窯は持ったものの、自分の方向性が決まらないまま日が過ぎていたとき、

「通ると思わなかった」まつもとクラフトフェアに「受かってしまって」。

 

harada

 

わたしが、原田さんと出会ったのは、まさにその2007年のまつもとクラフトフェア。

会場をぐるりと回って、原っぱの隅で見つけた原田さんは

たしかに、モノを並べることさえ手慣れずあたふたと見えたけれど

その作品は魅力的で、思わず足が止まりました。

原田さん自身「雑貨屋さんのうつわが好きでした」と言う

その面影はあったものの、シンプルでいて愛らしいかたち、

渋めでいてやわらかな色あいなど、彼女ならではの魅力があふれ

実際、目を留めたお客さまが、彼女のまわりに数多く集まっていました。

丸い愛らしいポットを手に取って「キレはいいですか?」と質問すると

その人だかりにもかかわらず、原田さんはすぐ、近くの水場に行って試させてくれました。

水キレはとてもよく、「これください」といただいたポットは、

いまもPARTYのキッチンで毎日、活躍しています。

 

pot

 

無造作に並べられていたピッチャーや小さいうつわにも心引かれ、

いつかお願いしたいと思っていたのが実現したのは

「cafe PARTY」というポットとカップの催しのとき。

機能的で、愛らしい原田さんのポットはもちろん人気者でした。

 

思わず通ってしまったクラフトフェアが、

のんびりやの原田さんに、いきなり作家としてのスタートを切らせたようです。

 

harada

 

さて、今回、始めて会った原田さんと武井さん。

どちらも気取りない人柄で、作り手同士の話が弾み

結局、この日は終日3人で行動することになりました。

武井さんの工房を訪ね、お昼を食べ、お茶を飲み、

いちばんの目的の原田さんの家に着く頃には、日が傾いていました。

そして、工房で原田さんの作品を前にあれこれ話していたときに

飛び出したのが、冒頭の台詞。

けして乙女チックでなく、どちらかというと

シャイな「ガテン系」の男の子みたいに

ちょっと朴訥な原田さんから出た「森のクマさん」という言葉に

みょうに嬉しくなってしまいました。

 

harada

 

作り手には、本人がどれだけ意識しているかの差はあっても

それぞれに目指す方向やイメージがあるはずです。

目標とする作り手だったり、古い焼きものであったり、あるいは憧れる食の風景であったり…。

多くが高みを目指す中で、てらいもなく

「森のクマさんの家にある食器」と言ってしまう原田さんが

私はあらためて好きになってしまったのです。

 

harada

 

仕事のストレスから漠然と陶芸をはじめた原田さんに

衝撃を与えたのは、ルーシー・リーの展示でした。

「陶芸ってすごい、と思いました」。

小さな壷の下にかがみ込み、こんなに小さいのにと

その存在感に圧倒されました。

 

でも、同時に「この、スタイリッシュな感じは、自分じゃない」と思い、

自分の中には何があるのか考え続けていたときに

浮かんで来たのが森のクマさんだったと言います。

 

harada

 

「だから、個展のときなど、小鉢もあったほうがいいかなあと思っても

クマさんの家にあるのが想像できないと、うまく作れないんです。」

 

だったら、小鉢は作らなくっていいんじゃない?

と、わたしも言ってしまいます。

小鉢を作る人はたくさんいるし、いつか原田さんに

クマさんがお浸しを食べてたりする姿が見えたとき、作ればいい。

 

harada

 

たしかに、原田さんのうつわは、森のクマさんの家にあるのが似合います。

よけいな装飾がなくて質実、だけど、クマさんみたいに

ぬくぬくとしてどこかいとおしい。

採って来たばかりの森の木の実や果実、

それをざくざく切って作る素朴で栄養たっぷりのスープなんかが似合いそう。

厳しい森の冬を乗り切るために(本当は冬眠しちゃうのかもしれないけれど)

色味もかたちも暖かい。

「そうそう、これはクマさんちにあるね」「これもきっとある」。

原田さんのうつわを見ながら、いつしか武井さんとふたり

頭の中に、森のクマさんの家のイメージがひろがっていました。

 

harada

 

たしかに原田さんの食器には、ルーシー・リーのように

ハッとさせる衝撃はないけれど

見る人を、使う人を、ホッとさせるものがあります。

そして、それは日常のうつわとして、とても嬉しいことだと思います。

 

harada

 

ただ、ひとつ不満なのは、原田さんのうつわに

クマさんのうちにふさわしい大振りのものがないこと。

収穫をどっさり盛れる食器が欲しい、と

それはわたしのリクエストであり、きっとこれからの課題。

でも、いまは原田さんの心の風景を大事にして、モノづくりをたのしんで欲しいと思います。

そうして自然に生まれて来るものが、きっといちばん素敵なものだと思うから。

 

harada

 

原田さんの工房をおいとまするとき、

もう、塩山はとっぷり暮れていました。

 

2010年10月19日訪問

→原田七重さんの作品はこちら。

鈴木健司さんのこと

suzuki


そのお椀に出会ったのは

去年の9月、初めて浄法寺 滴生舎を訪ねたときのこと。

深く美しい朱の色に、ゆったりとてらいのないかたち。

こんなに素敵なお椀を作るのは、どんな人だろう。

きっと人気の作り手だな、と思いつつ

メモに「鈴木健司さん」と名前を書きとめて

その日は少し急ぎ足の行程だったため、そのまま浄法寺をあとにしました。



長く愛着を持って使える漆のお椀に、出会える店になりたいと、

何年か前から思っています。

日々の食卓に欠かせないものでありながら

かつて日本の暮らしに根付いていた工芸でありながら

いつしか贅沢品になってしまった漆のお椀。

そう言うわたしも木地からきちんと作られた

作り手の顔の見えるお椀を使い始めたのは

30代も終わりになった頃でした。

持って軽く、中身の熱さを手に伝えず、口当たり良く、美しい。

さらに日々使い込むほど艶やかになり、愛着に応えてくれる。

自分が知った魅力を伝えたくて、幾度か漆の催しも開いたけれど

やはり他のうつわに比べて高価で動きにくい。まして常設ではなおさらのこと。

次第にめげそうな気持を支えたのは

いつも変わることなく、誠実に仕事を続ける

作り手たちの存在でした。

  

初めて使い始めたお椀の手塚俊明さん、その手塚さんと一緒に

もう10数年前にグループ展をやってもらった野村俊彰さん、長井均さん。

あちらこちらの催しでここ数年に知り合った作り手たち。

おそらく漆にとって厳しい時代であっても

誰もが会うたび穏やかな笑顔で、漆のうつわを作り続けています。

  

そして、昔から心を惹かれながら

出会いのなかった浄法寺とその周辺の作り手と

こどものうつわ展をきっかけにおつきあいが始まったことも

漆への思いに再び弾みをつけました。

  

suzuki

  

「浄法寺に行ってみたい」。

国産漆の70%を産する漆の里。

一度は壊滅状態に廃れた漆器を、見事、日常のうつわとして蘇らせた産地。

漆を扱うなら一度は訪ねてみたい。

その思いが実現したのが、去年「こどものうつわ」の取材のため、

同じ二戸周辺の大野木工を訪ねた帰り。

そのとき見たのが鈴木健司さんのお椀です。

  

suzuki

  

東京に戻ってしばらくして滴生舎に電話して

いつも作り手の紹介をしてくれる小田島さんに鈴木さんのお椀の話をすると

「あ、いまここにいますから代わります」。

突然の展開に慌てる間もなく鈴木さんが出て、あっさりと交渉成立。

欠品していたものをしばらく待って作っていただいて、その年の暮れから

鈴木さんのお椀が、PARTYに並ぶようになりました。

  

suzuki

 

鈴木健司さんは塗り手であると同時に、数少ない漆の掻き手のひとりでした。

会津で漆器の製造をする家に生まれた鈴木さん。

塗り師として仕事をしていましたが

「業者さんから漆を買っているだけだと、不具合があったときにも

言い含められてしまう。知識がないと、反論できないんです」。

さらに、あまたいる漆の塗り手の中で

自分にしかできないことをと考えたとき

漆を掻きたい気持がつのりました。

  

そして、弟子入りを志願したのが

同じ福島で、おつきあいのあった漆作家の谷口吏さん。

自分で掻いた漆で作品を作る谷口さんに願い出たところ

「そんなに甘いもんじゃない」と門前払い。

幾度かそれを繰り返すうち、本気ならばと勧められたのが

浄法寺の日本漆掻き技術保存会による研修生制度。

さっそく応募してみたけれど「書類審査で落ちちゃったんです」。

  

けれどおかげで、谷口さんに師事することができ

1年が過ぎた頃、浄法寺から連絡がありました。

そして、浄法寺での一年の研修。

それが終わる頃、ちょうど塗り手を探していた滴生舎から声がかかり

鈴木さんは浄法寺に移住することになります。

それから夏場は漆を掻き、他の季節は工房で塗りという

鈴木さんの浄法寺暮らしが始まったのです。

  
  

suzuki

  
  

漆掻きの仕事を見せていただきたくて、この8月、鈴木さんを訪ねました。

掻き手として数々の取材を受けて来たらしい鈴木さんですが

「ギャラリーの人は初めてだなあ」

「わたしも漆掻きをする作家さんと会ったのは初めてですもの」

「ああ、そうか!そうですよね」。

本当に、木地から作る塗り手はいても、漆を掻く人は初めて。

浄法寺では大御所 岩舘隆さんが「漆が高くなったから」と自ら掻いていますが

それでも希少な存在です。

  

浄法寺の唯一の民宿である「天台荘」に宿泊し

朝8時に迎えに来てくれた鈴木さんのクルマで仕事の場へ。

事前に電話で「装備」を訊くと

「山ですからね。長袖、長ズボン、帽子に長靴。あと、蚊取り線香ですね」ということで

かなりの山歩きも覚悟していたけれど、どこまで行くの?と思うほど

薮の山道をガタガタかき分け、クルマは漆の林の間近に着きました。

  

suzuki

  

漆掻きの道具を身につけた鈴木さん、

掻いた漆を入れるカキタルの縁をトントンと叩き始めます。

掻いた漆をここでこそげとるため、縁を平らにならすのです。

1本の漆の木から取れる漆は、1シーズンでわずか牛乳瓶に1本。

一滴も無駄にできません。

また、1gの漆があれば、お椀の一塗りができるといいます。

  

suzuki

  

「あそこです」。

鈴木さんのあとについて指差された林に向かうと

すでに何本ものキズが付けられた漆の木々が見えて来ます。

  

suzuki

 

まずは掻く木の周囲を下草刈り。

次に、木に付いている傷の周囲の皮をカマで剥ぎます。

 

suzuki

 

こうして下準備をして、いよいよ漆を取るため、木に傷を付ける作業。

 

suzuki

 

最初にすでに付けた傷の下にカンナで1本傷を付け

今度はいちばん上に傷を付け、さらにその傷の奥にカンナの細い部分で1本傷を付けます。

しばらくすると、その傷を塞ごうとして木が漆の液を出し始めます。

 

suzuki

 

suzuki

 

それを手際良くヘラで掻き取ります。

 

suzuki

 

1本の木に付ける傷の間隔も決まっているそうです。

 

suzuki

 

漆掻きの道具はカマやヘラの刃の部分以外、持ち手もカキタルもすべて手づくり。

はしごも自分で作ります。

 

suzuki

 

はしごは凸凹の地形に馴染むよう、敢えて左右が動くように緩く作ってあります。

いちばん上は、木の丸みに添うよう縄だけで編まれています。

 

こうして低いところから高いところまで

いくつかの木を掻いたら、また最初の木に戻り

にじみ出て来た漆をていねいに掻き取ります。

一度掻いたあと、さらににじみ出て来る漆がこぼれないよう

留まる角度で傷付けるのも漆職人の技術。

こうして、1日100本ほどを掻いて

カキタルに2杯、約400匁(1.5kg)の漆が採れます。

漆掻きは6月上旬から準備が始まり、10月上旬で終わります。

年間20貫採れると、ようやく1人前と言われるそう。

 
 

suzuki

 

1日のうちでも、朝掻いた漆と夕方のものでは質が違い

また、シーズンのどの時期に掻いたかによっても大きく違います。

8月のこの時期に採れる漆は「盛り」と呼ばれ、もっとも品質の高いもの。

 

さらに驚くことに、漆の質は掻き手の技術によっても格段に違って来るそうです。

「中国の漆は質が悪いと言われますが、掻き手の技術の問題なんです。

誰が指導したのか、最近は中国の漆でも、ずいぶん質のいいものが出て来ました」と鈴木さん。

そうだったんだ。

掻き手の技術という言葉を口にするとき、鈴木さんの漆掻きへのプライドがうかがえます。

 

suzuki

 

木が植えられてから漆が取れるようになるまでには、14~5年がかかります。

漆を取った木はシーズンが終わると伐採しますが

その根から芽吹いた漆は、すでに根っこができているので

10年ぐらいで採れるそうです。

漆の衰退した時期、漆の木を植林する人は極端に減りました。

けれど、平成19年から始まった日光東照宮の大規模修復に

浄法寺の漆が使われることになり、漆の値段が上がったことで

再び漆を育てる人も増えてきたそうです。

 

掻き手は漆の木を、その年ごとに地主さんから買います。

ひとりの掻き手が400~500本。

それを1日に100本ほどずつ、ローテーションで掻いて行きます。

 

いま、浄法寺の掻き手は25~6名。

そのほとんどが70代から80代の高齢者で

40代始めの鈴木さんは、独り立ちしている掻き手の中では最若手だそうです。

たしかにこれまで本などで目にした「漆掻き職人さん」は

いかにもこの道数十年という年配の人ばかり。

木々の間を身軽に動き、手際良く漆を掻く鈴木さんの姿は

そのイメージを塗り替えます。

 

鈴木さんに初めて会ったのは、この1月、東京で漆サミットという催しがあったとき。

背広姿の鈴木さんはちょっと強面で、じつのとこ話しかけづらかったのですが

ホームグラウンドでは、見違えるようにいきいきとして魅力的。

飽きずに眺めていたわたしたちに「そろそろ終わってもいいですか?

今日の漆はあまり良くないみたいです」。

 

滴生舎に引き上げて、鈴木さんの採った漆を見せてもらいました。

 

suzuki

 

suzuki

 

これは採って来たままの漆。

これから、成分を均一化させる「ナヤシ」や、

熱を加えて余分な水分を取り除く「クロメ」の生成作業が施されます。

 

suzuki

 

このシールが、正真正銘の浄法寺漆である証し。

浄法寺漆の値段は地元の相場で100g 約6000円。

この樽は19.19kgと書いてあるので、約114万円分が入っていることになります。

 

それでも、地主さんから木を買ったり、さまざまな経費を除くと

漆掻きの収入は、決してゆたかなものではありません。

それでも、これから本格的な作家活動に入ろうとする鈴木さんにとっては貴重な収入源。

じつはすでに人気の作家さん、と思った鈴木さんは

いまはまだ滴生舎の塗り師としての仕事の傍ら、自らの作品を作っていて

来年、独立を機に、本格的に始動しようとしているところだったのです。

しかも、PARTYが「初めて作品を置かせてもらったギャラリーです」と聞き、光栄の極み。

「来年からはバリバリ作りますよ」との言葉に期待が膨らみます。

 

suzuki

 

漆器は、高い。

その理由の説明に、わたしたちはよく塗りの手間ひまを強調します。

木固め、下塗り、中塗り、そのたびの研磨に、繊細な神経を使う上塗り。

それでも、一生使えるものだからとお客様に勧めます。

けれど、その前に「漆」という素材がありました。

木が付けられた傷を癒そうとして絞り出す命の一滴。

だからこそ、堅牢で美しい漆。

そして、その一滴一滴の尊さを知り、大切に根気よく掻き採る人がいました。

 

漆器を本気で扱うならば、そこから知らなければなりませんでした。

しかも、掻き手が少ないだけでなく、道具を作る人ももうわずかにひとりということも

浄法寺に来て知りました。

使う人がいなければ、漆の文化が危ないと、あらためて肌で感じました。

 

suzuki

 

浄法寺の人に触れ、鈴木さんの仕事に触れ

小さい力であるけれど、漆を応援し続けて行きたいと

そんなことを思いつつ帰途に着いた旅でした。

 
 

猛暑の2010年8月22日訪問

 

→鈴木健司さんの作品はこちら。

山脇將人さんのこと

山脇將人さんのこと


yamawaki

山脇さんは不思議な人です。
最初に、作品を見せに来てくれたのは2年ほど前のこと。
去年、ふたたびふらりと現れたときには
「誰だったっけ」と一瞬悩んだものの、
あ、あの時の、と思い出したとたん、
昔から知ってた近所の子のように、なじみの口調で話してしまう。
「久しぶりじゃん、どうしてた?」
とまでは言わないけれど、そんな感じ。
とくに饒舌でも、愛嬌がある訳でもなく
むしろ淡々として、見ようによっては態度がでかく
しかも強面である。のに、です。


山脇さんは、宮崎の人です。
宮崎というと、わたし世代はフェニックスの続く海岸線。
新婚旅行のメッカ(旧過ぎ)なんて連想してしまうのだけど、
彼の住む小林市は山の方で、先ごろ噴火した新燃岳を望む
緑の懐に抱かれたエリアです。

yamawaki

その小林市で、山脇さんが高校生の頃、
うつわ好きで行動力ある母上が、そのころ誰も考えもしなかった
自宅ショップを始めました。

ym

宮崎県内、鹿児島など、買い付けに同行し、かいま見た焼きものの仕事場。
「かっこいい!」
純真な山脇少年には、それがとてもかっこ良く、近寄りがたく神聖なものに思えたそうです。
いつか、焼きものをやりたい。
思いを秘めつつ、高校卒業後、彼は美術の勉強に上京します。
1年間、基礎を学んだあと、いよいよ陶芸の道へ…。
と思いきや、彼は東京で焼きものとはまったく関係ないフリーターの生活を始めます。
心の底では「陶芸家になるんだ」と思いつつ
「半端な気持でやりたくなかったんです。腹をくくって始めたかった」。
思い定めた彼女はいるのに、人生を捧げる決断ができない
あるいは幸せにする自信が持てない状況?
違うか。

yamawaki

ともあれ、フリーターをしながら暮https://party.ue.shopserve.jpらした東京で
美術館、建築物、イベントにお店…
やきものに限らず、心惹かれるあらゆるものをどん欲に見、吸収し続けました。
その間、初志を忘れず、自分にプレッシャーをかけるため、
周囲の人に「僕は、焼きものやになるんだ」と言い続けていたと言います。
なら、早くやればいいのに。そう思ってしまうけれど
もしかしたら彼に取っては必要な、インターバルだったのかもしれません。

yamawaki

そして、7年経ったある日、
「こんなことやってる場合じゃない!」
と、彼はようやく行動に出ます。

25才。
山脇さんが選んだのは、陶芸教室でも訓練校でもなく
地元に帰って窯元に入るという、即実戦の道でした。

思いだけで、土に触れたこともなく、焼きもののできる行程も知らなかったという彼を
受け入れてくれたのが、粉引きを主とし、年に数回、薪窯で焼き締めを焼いて販売する「中霧陶園」。
陶芸を志す若い人を縛ることなく、早い独り立ちを促す窯元との幸運な出会いで
山脇さんは、土こねからろくろ、窯焚きまで
短期間でみっちり仕込まれます。
7年間の思いが堰を切ったように、爆発的なエネルギーで
山脇さんも焼きものに没頭したのでしょう。

yamawaki

yamawaki

そして、2年で窯元から独立。
自宅の一角に窯を構え、自分の作品を作るようになり
人もモノも集まる東京で、作ったものを見てもらおうと
山脇さんはお店を回ることにします。
それは、近くに住み、いつも何かとアドバイスをくれていた
先輩陶芸家 増渕篤宥さんに学んだことでもありました。
そのとき、山脇さんの道順にPARTYも入っていたようです。

yamawaki

初めて彼の作品を見た時の感想は
「上手ですね~」だった気がします。
ろくろのうまさに、シンプルできれいなかたち。
焼きものを始めてまだ数年と聞いてびっくり。
うまいなあ。…でも、何か足りない。なんだろう。
と、妙に親身に考え込んでしまったのは
いまにして思えば、永い助走を経て「神聖なる」焼きものの世界に飛び込んだ
山脇さんの意気込みが、一途な熱意が、淡々とした物腰であっても
そのまなざしから伝わっていたのかもしれません。

それから、2年ほど。
ある時は早割、ある時はバースデー割引を使って、
山脇さんは遠い宮崎から、「近所の子」みたいな何げなさでふらりと東京に現れます。
少しずつ、作品の幅も広がり、
時おり声をかける企画展にも、はいっ!と手を挙げて起立するように
素晴らしい意気込みで参加してくれます。
届くたくさんの作品は、いいと思うもの、いまひとつなものいろいろあるけれど
がむしゃらだけど清々しい、一生懸命さが伝わってきます。

yamawaki

クリーム色のやわらかな粉引き、早春の野を思わせるやさしい灰釉
温かなツートーン、ちょっとスタイリッシュな銀彩…。
企画展や東京への来訪時、断片的にしか見ていない山脇さんの作品を一堂に見てみたい。
そして、たくさんの人に見てもらい、これからにつなげて欲しい。
そんなことを思い、この秋、山脇さんの初の個展を開かせてもらうことにしました。
持ち前の負けん気とガッツと、繊細な気持が込められた作品たちが
いま、彼のスタートラインに並びます。


2011年10月12日




愛犬カレン。
もの静かで賢い女の子のゴールデンです。
「ほんとはわたしの犬なのよ。あの子は反対したのにね」と,お母さんの香代子さん。

yamawaki

やはりゴールデンレトリバーだった前の愛犬「デク」が死んで
新しい犬を飼うことを山脇さんは猛反対したそう。

yamawaki

これがデク。
なのに…。その溺愛ぶりは、山脇さんのブログで。


yamawaki

香代子さんが丹精しているお庭は
草花がのびのびと自然な姿で育って心地いい。
ここで時おり、山脇さんのうつわの展示会も催され、
近所の人たちが集まります。
庭やお宅のあちらこちらに、心惹かれるアンティークなどが何げなく置かれ
山脇さんの旧い物好きも、母上譲りなのがわかります。
うつわの使い勝手に対する、貴重なアドバイザーもお母さん。

yamawaki

いま、主として使っている土は2種。
黒泥に鉄分の多い信楽を混ぜた土は黄色い粉引きに、
白く細かい信楽の粘土に、半磁器をたしたものは茶と黒のツートーンのシリーズに。

yamawaki

半磁器にも挑戦中。

yamawaki

同じ宮崎に住む杉尾信康さんの工房で。

yamawaki

増渕さん(後ろ中央)の工房でバーベキュー。
神聖なる陶房で、いいのかなあ。
九州は、いま元気な陶芸家さんがたくさん。
交流も盛んで盛り上がっています。

yamawaki

新燃岳を含む霧島連山。
山脇さんの家の近くから見える風景です。

→山脇將人さんの作品はこちら。

柴田慶信さんのこと

柴田慶信さんのこと
 
柴田
 
6月のある日、秋田の大館へ柴田慶信さんを訪ねました。
ちょうど7月に個展をしていただいた伊藤嘉輝さんを角館に訪ねる目的もあり
絶好のチャンスとばかり、緑の窓口で「秋田大館フリーキップ」を買い込んだのでした。
 
柴田
 
朝6時40分の新幹線で盛岡まで。そこから、第3セクターのいわて銀河鉄道経由、花輪線に。
2両編成の小さな列車は、安比、八幡平など、山あいを抜け、車窓を覆うばかりの緑の中を走ります。
やがて、風景はどこまでも広がる田んぼに変わり、
お昼過ぎ、終点の大館に。東京から6時間の旅。
飛行機を使えば早いけれど、人を訪ね、はるばると見知らぬ土地へ赴くときめきは、
時間をかけ、移り変わる車窓の景色を通り抜けてこそのものに思えます。
 
柴田
 
降り立った大館の駅では、忠犬ハチ公が迎えてくれました。
大館は、秋田犬であるハチ公のふるさとなのでした。
駅から歩いて10数分。のどかな住宅地に「柴田慶信商店」はありました。
砂利道を挟んで、工房と事務所兼、柴田さんのコレクションを集めた「世界の曲げ物小さな展示館」。
事務所の前には、新品の軽トラが停まっていました。
 
柴田
 
柴田さんと初めてお目にかかったのは昨年の三越での催しの時でした。
そのころ、公私ともに「素敵なお弁当箱」を探していたわたしに
全国の手仕事に通じる「スタジオ木瓜」の日野明子さんが
柴田さんの曲げわっぱを薦めてくれて、ちょうど三越で催しがあり
いらしていると教えてくれたのです。
さっそく飛んで行くと、広々とした日本橋三越のスペースに
さまざまな美しいわっぱが並び、そのまん中に作務衣姿の柴田さんがいました。
話し掛けるとすぐに柴田さんは人なつこい笑顔を浮かべ
まるで、以前からの知人のように、親しい口調でとりとめなく話し始めました。
わっぱのこと、 お孫さんのこと、その年招かれて行くニューヨークのこと…。
とくに品物をすすめるでもなく
あるときは、淡々と愛おしむようにわっぱを語り
あるときは、子供のように目を輝かせて日々の発見を語る
そんな柴田さんの秋田弁に、わたしはすっかり引き込まれてしまいました。
「朝ごはんの食卓」展の企画を立てた時、
柴田さんのおひつが欲しいと思いました。
電話をすると、もう1年が経ったらしく、また三越の催しがあるとのこと。
駆け付けて、大館に伺う約束をすることができました。
 
柴田
 
 
柴田商店の事務所の裏には、製材された木が所狭しと積まれた資材置き場があります。
高い天井の小屋は「4mの杉を置きたくて」、自分で溶接して作ったそうです。
それだけでなく、事務所の脇、工房の壁、いたるところに木、木、木。
通気性に優れ、香りが良く、わっぱの素材としてこのうえない秋田杉。
その中で、柴田さんが使うのは樹齢200年以上の天然の秋田杉だけ。
けれど次第に稀少になるその素材を確保するために
「品物が売れてお金ができると、木を買ってしまう」と、柴田さんは言います。
積まれた木の中には、樹齢230年、伐採してから150年、製材してからでさえ100年も経つという
途方もない歴史を持つものもありました。
 
柴田
 
今年、67歳の柴田さんが、わっぱの道に入ったのは24歳のときのこと。
営林署で働いていたものの、本採用になる当てもなく
古くからあるわっぱの仕事なら、儲かりはしないがいいのではと
友人にすすめられ、結婚を機に取り組み始めたものの
どこかに弟子入りするわけでもなく、まったくの独学。
わっぱを買って来ては壊して仕組みを研究し、試行錯誤の苦しい時代が続きました。
「儲からないのに人寄せが好きだったから、3回、ちゃぶ台をひっくり返したな」
けれどやがてその努力は実を結び、40代半ばからは連続して全国伝統工芸展に入賞。
'86年には伝統工芸士の認定も受け、88年にはその作品がグッドデザイン商品にも選ばれました。
そのかたわら、パリの日本伝統工芸展で実演したり
アジア漆文化源流調査で、中国やベトナムなどを訪ねたり
ドイツ、ニューヨークなどの見本市へ出品したりと
しばしば海外に出かけるうち、世界のいたるところで古くから曲げ物が使われていることを知り
感銘を受け、収集を始めます。
事務所の一角にある「世界の曲げ物小さな展示館」
(と言っても、棚がコの字に並んでいるだけですが)には、
柴田さんが集めた世界各地や古い日本のたくさんの曲げ物が、
半ばホコリをかぶりつつ、ひしめいています。
もっとも、柴田さんひとりで集めたわけではなく
その熱意を知る人がくださった貴重な品も数知れず。
「心あれば、自然と集まるもんだね」と、柴田さんは目を細めます。
 
柴田
ヨーロッパのbox。
 
柴田
これはメジャー。
 
柴田
留め金が可愛い、昔のお弁当箱。
 
柴田
美しいフォルム。
 
柴田
スエーデンのローソク立て。

独学で拓いたわっぱの道、各国の工芸との出会い。
そんなキャリアと持ち前の好奇心のせいか柴田さんのわっぱの世界は、
既成概念にとらわれない広がりがあります。
展示室で見せてもらった、時代劇に出てくるようなろうそくを立てる「ライト」
(なんて言うんだったかな?忠臣蔵の討ち入りで吉良邸を照らしていた…)や大きな太鼓。
 

 
柴田
 
おまつりのための太鼓を頼まれた時は、意気に感じて大きな丸太1本買いました。
「オレ、そういうの弱いのよ」
でも、山車に乗せても大きすぎ、結局持て余されたと笑います。
また、最近ではシェーカー風の箱を頼まれたと
「わっぱ」のイメージを新たにする、モダンな入れ子のひと組を見せてくれました。
 
柴田
愛しそうに、箱から出して…。
 
柴田
桜の皮の綴じ。外はウロコ縫い。中は亀甲。
 
柴田
5段の入れ子のboxです。
 
そんな尽きることない遊び心とチャレンジ精神の一方で、
柴田さんはまた、妥協のない職人でもありました。
お弁当箱やおひつなど、なじみのわっぱを作る工房。
そこへ一歩足を踏み入れるなり、若いスタッフに柴田さんの厳しいチェックが入りました。
 
柴田
 
工房の仕事は分業です。
木取りや削り、曲げ加工、桜の皮による繊細な「綴じ」や、仕上げの削り。
それぞれの人が黙々と作業に取り組んでいます。

 

(煮沸して型に合わせて曲げると、紙のようにしなやかに曲がる)


こうして伝統の生活道具が生き続けるために、日々、手仕事に取り組む若者たちがいるんだな、と
浮ついた東京の喧噪とかけ離れた世界に、背筋の伸びる思いでした。

お話を聞き、たくさんの収集品を見せていただき、工房を見学し
たのしい数時間が過ぎたあと、
柴田さんがおもむろに「大館を一望できる場所に行ってみよう」と言い出しました。
買ったばかりの軽トラは、自家菜園を耕す小さな耕耘機を積みたい一心のもの。
ふたりしか乗れないし、荷物は濡れるし、と社員には極めて不評なその愛車でドライブとなりました。
アクセルを踏むと唸るようなクルマを飛ばして、高台の見晴らしのいい場所に連れて行ってくれたり
丹精込めた菜園に寄り道したり
(木を植えるのも好きなんだ、と仕事場の脇にはキウイやたらの木もありました。)
葉影で鴨が卵をあたためる場所を見せたくれたり
まるで悪戯っこが秘密の場所を自慢するように、嬉しそうに案内してくれる柴田さん。
広々とした田畑の中を抜けながら「ほんとに、豊かな土地ですね」と感心すると
「どこかから飛行機で帰ってくる時、この景色を見ながら思うんだな、
これからは、東北が日本の食料基地だ」と、柴田さんはうなづきました。
あきたこまちのふるさとである、この緑豊かな土地で
いつまでも子供のようなみずみずしいときめきとエネルギーを持って
素敵な作品を作り続けてください、柴田さん。
そう願わずには、いられませんでした。
 
柴田
 
 2007年訪問

→柴田慶信さんの作品はこちら。

清水なお子さんのこと


「こんにちわ~。こんな遠いところまで」
爽やかに晴れた4月の休日。
清水さんはその空に負けないぐらい、明るい笑顔で迎えてくれました。
 
清水さん
 
清水さんが住んでいるのは、京都から山陰本線に乗って嵯峨、嵐山を過ぎて間もない馬堀というところ。
保津川の渓谷をぬって走るトロッコ電車の、一方の起点になっているのどかな町です。
師匠である藤塚光男さんの住む亀岡とも、程近い距離のここに清水さんは3年前、独立して窯を持ちました。
 
カップ
 
藤塚さんといえば、古伊万里を思わせるしっとりと美しい染め付けで絶大な人気を持つ作家さん。
さぞ弟子入りは競争率が高かったのでは?
「いえ、いまは弟子入りしようとする人が少ないんです」
大学や訓練校を出た若い人は、すぐにひとりで、あるいは仲間と窯を持ち
師匠について修行しようと志す人は、もう本当に少ないとのこと。
それでも清水さんが弟子入りを選んだのは、意外にも染め付けを学びたかったからではなく
「もっとろくろを勉強したかったから」。
じつは、弟子入りするそのときまで、藤塚さんの名を知らなかったというのです。
でも、その幸運な出会いがあって、清水さんは弟子であった3年あまりのうちに
ろくろだけでなく、秀でた技術を学び
さらに作ったものが、お店から使い手。人の手から手へと渡って行く流れを学び
若くして実力ある女性陶芸家として、順調なスタートを切ることになりました。
 
皿
 
清水さんは、去年、母校の精華大学の先輩であり
独立後、一緒に窯を持ったパートナーの土井善男さんと結婚しました。
土井さんは、清水さんと同じく白磁と染め付けの作家さん。
「だから、いつも窯の場所の奪い合いなんです」と、笑いながら
土のこと、釉薬のこと、うつわのかたちや染め付けの絵柄のこと
並んでろくろを引きながら語り合い、日々、試行錯誤しながら
もの作りに励むふたりの様子ガ目に浮かびます。
「窯の温度や炊き方の管理は、彼の仕事」と、嬉しそうに話す清水さん。
彼女のいつも変わらぬ屈託のない笑顔と
やさしく心和ます染め付けは、そんな幸せな暮らしの背景があるからこそだと思えます。
 
ふたり
 
使いやすく、日々の食卓で愛されるうつわを目指す清水さん。
いちばんたのしいのは、新しい絵柄を考えて焼き上がって窯を開けたとき
うつわのかたちと絵柄がぴったり調和して、素敵に出来ていた瞬間だと言います。
染め付けの染料である呉須が、発色するのは窯で焼いてからのこと。
考えて絵付けをしても、思うイメージに上がらないことは多々あるとか。
逆に、絵柄が浮かばず悩んだとき、ふとほかのかたちのうつわに描いていた柄を
新しいかたちに転じてみると、思い掛けない新鮮なものにあがることもあるそうです。
まるでふたりの電気窯は、日々、新たな驚きを生みだす玉手箱のようにも思えて来ます。
 
窯
若く、きらきらと輝く可能性に満ちた清水さん。
そののびやかな感性で、これからも食卓にさわやかな風を届けてくれるでしょう。
 
染め付け飯わん

2004年4月訪問

→清水なお子さんの作品はこちら。

中尾雅昭さんのこと


中尾さん

伊豆の海沿いの135号線。 週末には行楽のクルマで混み合うその道から、
何度行っても見過ごしてしまう 細い脇道に入り、
曲がりくねった農道を心細くなるほど登ったところに 、中尾さんの家はあります。
傍らのせせらぎには、アヒルが2羽。
「あれはうちのアヒル。でも、最近、鳥に変な病気が流行っているから心配」。
仕事場に、確かウサギもいましたよね。
「ああ、ウサギはいなくなっちゃったけど、近所の人がどこかで元気にしてるのを見かけたらしいです」。
奥さんと3人のお子さんたちと犬のダイ、 猫のもえ、あひるのフィーフィー、フェーフェー、
名無しのハムスター。そして、いま旅に出ているうさぎのウーサンと
季節には目の前で山菜が採れる緑豊かな場所に、中尾さんは暮らしています。

窓辺

中尾さんが陶芸とで出会ったのは大学4年生のころ。
それまで金工専攻だったのが、あるとき焼きものに触れ
土いじりの楽しさに目覚め、卒業後もその道に進むことに。
そして、やがて陶人形の第一人者、阿部和唐(わとう)さんに出会い
伊豆の和唐さんのお仕事場で、作陶することになったそうです。
とはいえ、弟子入りとはちょっと違い、ときおり手伝いをすることはあっても
和唐さんは和唐さん、中尾さんは中尾さんの作品づくりに励む日々。
やがて、天性の人形作家とも言える和唐さんの仕事を目の当たりにした中尾さんは
自分らしいものづくりを模索して、うつわの世界に入って行きます。
阿部和唐さんのお母さまは料理研究家の故・阿部なをさんでした。
そのアドバイスや、和陶さんのところでずっと三食炊事をしていた経験も幸いして
使いやすく盛り映えのする中尾さんのうつわは、まもなく注目され人気を集めます。

棚

わたしが中尾さんと出会ったのは、店を始めて間もないころ。
親しくしていただいていたギャラリーで、中尾さんが個展を開いていたとき
そのオーナーが「PARTYさんに合いそうなうつわ」だと、教えてくれたのです。
さっそく見に伺うと、それは、それまで知っていた作家ものとはまったく違う
モダンでお洒落で明るくて、心を弾ませてくれるうつわたちでした。
それからすぐに個展をお願いして、翌年も、また翌年も。
いつの間にか、中尾さんの個展はPARTYの春に欠かせないものになりました。
もう10年近くになるというのに、はじめからのお客さまも飽くことなく、楽しみに来てくださるのは
中尾さんがいつも新しい驚きをくれるからだと思います。



「土の表情を見つけるのが楽しいんです」
だから、焼きものを続けられるんだと、中尾さんは言います。
中尾さんと話をしていると、まるでやきものの土も
犬のダイやウサギのウーさんや、あひるのフィーフィー、フェーフェーと同じ
中尾さんにとって興味の尽きない遊び相手のように思えてきます。
ああしてみよう、こうしたら面白いかな、と土と戯れて
思うように行かないことも、あれッと思う出来上がりも愉快がって
新しい発見に顔をほころばせる、そんな中尾さんが目に浮かびます。
焼きものだけでなく、中尾さんはさまざまなものに
ゆたかな好奇心を持つ人です。
個展で出かける新しい土地、初めて出会う人たち。
日々の暮らしの中の小さなできごとにも、素直な感動や驚きを覚えることのできる
数少ない大人のような気がします。
作家さんとして、もの作りの苦労はたくさんあるには違いないけど
どのうつわからも、ゆったり楽しい気分があふれ、使う人をうきうきさせるのは
そんな中尾さんの天性とも言えるピュアな心のせいだと思います。

熊

ここしばらく、中尾さんを夢中にさせているもののひとつが「クマ」のモチーフ。
故・星野道夫さんの本で見たシロクマに心をひかれたのがきっかけで
お仕事場にはたくさんの写真集がありました。
てっぺんにちょこんとクマの乗ったふたものや、うつわそのものがクマの鉢。
今回の個展でも、いろいろなシロクマたちに会えそうです。
もうひとつ、中尾さんの個展で楽しみなのが、爽やかなグリーンを入れたポットたち。
個展に向けて種を蒔き、発芽を待つポットも窓辺に置かれていました。

もちろん、ベーシックで使いやすいアイボリーのうつわ
黒や茶のシックなうつわもスタンバイしています。
「長く焼きものをやっていると、節目節目で上達を感じるときがあるんです」と、中尾さん。
そんなとき、前に作っていたものをあらためて作ってみると
また新しいものがみえてくる、と言います。
ひとつひとつが去年と違う、いつも進化している中尾さんの世界。
今年も遊びに来てくださいね!

2004年訪問

→中尾雅昭さんの作品はこちら。

村木雄児さんのこと


酒器

村木、あいつ、へたうまだろ? と、青木亮さんは言います。

焼きものを始めたばかりの人や子供は、つたないけれど

時折、 素朴で、ハッと心に響くものを作る。

けれど、やがて経験を積むにつれ、腕は上がるけれど

最初の素朴さが失われ、意識してそれを表現しようとしても

ただ、わざとらしくなるばかり。

でも、たまーに居るんだよな。 いつまで経ってもそういうものを作れる奴が。

たとえば、村木…と、青木さんは、ちょっと悔しそうに言います。
 
 
村木さん
 
 
なるほど、とわたしは目からウロコが落ちる思いがします。
粉引きのうつわを作り続けて、20年近く。
技術も経験も十分な村木さんなのに
その作品が、ほのぼのとどこか懐かしくいとおしい表情をしているのは
村木さんの天性の「子供の心」が写し出されているからなのでしょう。
 
そして、その真似ようとしても真似のできない感性が
使い手だけでなく、作り手の人たちをも引き付ける魅力なのだと思います。
 
 
梅の庭
 
 
村木さんのうつわと出会ったのは、まだ新米のショップオーナーだったころ。
(いまも、たいして変わりませんが)
そのころ親しくしていただいていたギャラリーの片隅に
ほんのりやさしい色と手に包みたくなるかたちの粉引きのそば猪口とお湯のみを見つけ
どなたのですか?と訪ねると、いいでしょう?
と、 お店の方は嬉しそうに村木さんのことを教えてくれました。
 
そのころからもう、村木さんは人気の作家さんだったようです。
けれど、気後れしながらおずおず電話して、お願いすると
いとも簡単に引き受けて、今度、東京に行くから寄りますと約束してくれました。
そして、その言葉通り、ある日、うつわの入った箱を抱え「こんちわ」と現れてくれたのでした。
 
気さくで、面倒見良くて「兄貴肌」(という言葉があれば)というのが、
それからの変わらぬわたしの「村木さん像」です。
 
 
村木さん2
 
 
村木さんと青木亮さんは仲良しであり、きっといいライバルでもあります。
豪胆に見えてナイーブな青木さん。ひょうひょうとしていて、芯の強い村木さん。
いろいろなスタイルに挑戦しながら進む青木さん、20年、ほぼ粉引き一筋の村木さん。
好対照のふたりは、お互いにいい刺激を与えあう関係なのだと思えます。
 
そのふたりが時折、トラックに乗って「土を取りに行く」という話をいつか聞いて
驚いたことがありました。「土を取りに行く?」
でも、別にふたりでスコップを持って掘るわけでなく、原土の産地へ
分けてもらいに行っていたというのが真相でした。
 
 
窯
 
 
「ブレンドした土はつまらないんだよね」と、村木さんは言います。
材料やさんで売っている土は、成型しやすいよう、ブレンドされている。
でもそれでは、つまらない。
石があったり、クセがあったり、村木さんがこうしようと思っても
抵抗して、その意志に逆らう土とコミュニケーションを取りながらかたち作って行く。
それが楽しいんだ、と言うのです。
土の声に耳を傾けながら、ねじ伏せることなく
土の個性をいとおしんで作る。
だから、どれだけキャリアを積んでも、むしろ積めば積むほど
村木さんのうつわは素朴で、土の呼吸が聞こえてくるのだと思います。

 
 
うつわ
 
 
ずっと粉引きひとすじだった村木さんが
最近、目を向けているのが唐津と磁器。
グレーから渋めの赤まで幅と奥行きのある発色が魅力の唐津。
青白の清々しい色合いに、村木さんならではの土味を生かしたあたたかな磁器。
新しい土たちと出会いから始まる、これからの世界がたのしみです。

2004年訪問

→村木雄児さんの作品はこちら。

福永芳治さんのこと

DM
 
どんな焼きものでもいいんです。
ただ、ひとつの焼きものの背後にある
「宇宙」を感じられるものを作りたい。
…と、福永さんは言います。
人も「もの」も、宇宙から見れば、小さくはかない存在。
けれど、ひとりひとりの人間の中にそれぞれの宇宙があるように
たんなる「もの」を超え、道具を超えて
人と対峙して語りかけてくるような、凛とした存在感のある焼きもの。
それが、福永さんの目指すものなのかも知れません。

福永さん1

蹴ろくろ(電動でなく、足で蹴りながら回すろくろ)を使った
柔らかみのあるかたち。
シンプルでいて、陰影のある色合い。
使い勝手もよく、熟練を感じさせるうつわを作る福永さんは
じつは脱サラで、本格的に陶芸家として独立したのは
いまから10数年前の40歳のときのことです。
長く勤めた出版社に別れを告げたのは
ひとりでできる仕事がしたかったから。
思考やら概念やらを、一度、 自分のからだにフィードバックさせ
「頭」と「からだ」で考えられる仕事がしたかったからで
その対象がたまたま「土」だった、と言うのです 。

素焼き

「僕は単身赴任なんです」と、初めてお目にかかったとき
自己紹介された通り、いまも福永さんは仲の良いご家族とふだんは離れ
八ヶ岳のそばの緑に包まれた武川村で、ひとり、自分と向かい合い、
土と向かい合って作陶を続けています。
(下の写真は、焼き締め用の蛇窯)

蛇窯

日々、黙々とひとりで仕事をしているためか
会うと、福永さんはお話好きです。
時折、お家にお邪魔すると「単身赴任」で磨いた腕で
美味しいパスタを作ってくれ、香ばしいコーヒーを入れてくれ
「じゃあ、そろそろ」と仕事場を見させてもらうまで
とりとめなくおしゃべりが続きます。
気さくで、九州男児らしくはっきりとした
福永さんと話していると、ついついざっくばらんになって
こちらも、とまらなくなってしまうのです。

福永さん2

パスタやコーヒーは、いつも粉引きのうつわで出されます。
シミになりやすい粉引きだけど、福永さんはいちばん愛用しているようです。
いつぞや、あつかましくも友人たちと押し掛けて
福永家でバーベキューをさせてもらったときも 取り皿は粉引きでした。
福永さんにとって、自作のうつわは、まったく気のおけない
そして、気心知れた、生活のパートナーになっているようにも見えました。

コーヒー

粉引き、鉄彩、グレーのわら灰。
福永さんの定番になっている色は、どれもお料理を盛りやすく、
ほかのうつわとも 合わせやすく、日々の食卓に欠かせなくなるものばかり。
けれど、個展以外ではなかなか出会えない、上品で美しいピンクの長石や
鉄彩とまた違った艶やかな黒も、わたしは目を離せなくなって
会期後にいくつか残っていると、ちょっとほくそ笑みつつ、
ちょっとまいったな~とか思いつつ
ついつい自分の食器棚へお引っ越しさせてしまいます。

焼き締め

そんな福永さんのうつわたち。
あなたもぜひ、使ってみてくださいね。

2003年11月訪問

→福永芳治さんの作品はこちら。

伊藤嘉輝さんのこと


 
伊藤さんと出会ったのは、去年の「クラフトフェアまつもと」でのことでした。
毎年、5月最後の週末に松本のあがたの森で開かれるクラフトフェアは
陶磁器、ガラス、木工、染色、金工などなど
全国から作り手が集まるクラフトの大きなイベント。
選考を勝ち抜いた、気鋭のクラフトマンが一堂に会す醍醐味と
緑薫るあがたの森の開放的なロケーションが相まって
いつもたくさんの人たちで賑わいます。

ito
 
出店者も、どこかリラックスしてたのしげなクラフトフェア。
その中で、ひときわのどかに、まるでピクニックのように
お昼ごはん真っ最中のファミリーがいました。
元気な小さな女の子たちに、笑顔のパパママ、
その様子になごみつつ、店先に眼をやると
家族の風景にふさわしく、温かなガラスたちが並んでいました。
 
ito
 
しゃがみこみさんざん迷って、ぽってりとして 泡のたくさん入った小鉢を買いました。
名刺交換をして、引き上げようとして、思い直して
最初に引かれた大ぶりのブルーのドラ鉢も買いました。
ちょっとおまけしてもらいました。
この年のクラフトフェアで、一番心に残る出会いでした。
 
ito
 
去年の7月は、ガラス、陶磁器、木工などの作家さんに参加してもらい
「サラダのうつわ」の催しを企画していました。
クラフトフェアから帰って、しばらくして伊藤さんに出品を頼んでみました。
会期まであまりにタイトだったけれど、小鉢やドラ鉢を家で使ってみて
どうしてもお願いしたくなったのです。
無理を承知だったけれど「少しなら」と引き受けてもらって大喜び。
こうして伊藤さんのガラスたちは、はじめてPARTYの店頭に並び
やさしい温もりを添えてくれました。
 
ito
 
伊藤さんは岩手県花巻の出身です。
一度は東京で就職しましたが、25才のとき
故郷の花巻に第三セクターのガラス工房ができることを知り
参加することになります。
そのとき、ガラスを学びに行った石川県能登島の工房で出会ったのが
いまの奥さんの亜紀さんです。
 

 
花巻の大迫町の施設「森のくに」のガラス体験工房で3年、
そこから独立した人の工房で2年。
1999年に亜紀さんとの結婚を機に、そのオーナーから設備を譲り受けて独立し
2003年、亜紀さんの実家である秋田県大仙町のいまの工房に移りました。
 
ito
 
個展にあたって、伊藤さんの工房を訪ねたのは6月初旬のことでした。
「角館まで来てくれたら迎えに行きます」。
秋田になじみはなかったけれど、角館は昔いく度か訪ねたことがありました。
以前、訪ねたときにはなかった新幹線が通ったというものの、降り立った駅は小さく
駅前には昔と変わらぬのんびりとした空気が流れていました。
伊藤さんのクルマに乗り込み走り出すと、まもなく風景は一気にのどかな田園に。
「仙北平野なんて言っています」とこれもまたのどかな口調の伊藤さん。

じつはせっかく秋田に行くならと、前日大館まで足をのばし
曲げわっぱの伝統工芸士 柴田慶信さんにお目にかかって来たのですが
その旅の間中、果てしなく秋田の田園風景に眼を奪われ続けていたのです。
なんて豊かな風景だろう。と。
 
ito
 
伊藤さんの工房は、まさにそんな田園のまっただ中にありました。
亜紀さんのおじいさんの代に、開墾したという広い土地。
そこでいまは亜紀さんのお父さんが、つまもの(お料理のつまになる葉)やイチゴ畑
自家製の大豆で作るお豆腐やさんまで幅広く手掛けています。
伊藤さんの工房兼展示室は、昔、農具を入れる納屋だったという建物を改造したもの。
あちらこちらに吹いたガラスをはめ込んだり、昔の道具を利用したり
伊藤さん夫婦が、愛おしみつつ、手をかけてこの工房を作り上げたことが忍ばれます。
 
ito
 
ito

古さを生かした空間に、伊藤さんのどこか懐かしい表情のガラスがよく映えます。
そして、木枠の窓からは一面に広がる緑。
ひとしきり話を終えたころ、亜紀さんが出してくれた手作りのシフォンケーキには
摘んだばかりの瑞々しいイチゴがひとつ。
 
ito

「お母さん、おかわり」。ぺろりと平らげた
未菜(みな)ちゃんと知花(ともか)ちゃんからすぐにリクエストが出ます。
未菜ちゃん6才、知花ちゃん3才。
「こんなところで育ったら、ほんとうにのびのびして幸せですね」
と、感嘆すると「のびのびし過ぎて」と笑う亜紀さん。
いえ、ほんとにゆたかな自然とご両親の愛に育まれ
お日さまのように元気にすくすくと、成長しているふたりに思えました。
 
ito
 
どんなガラスを作りたいですか?という問いに
「家庭不和にならないガラス」と、伊藤さんは笑って答えました。
高価なガラスだと、割っちゃったとき喧嘩になったりするでしょう。
そうでなく、割っても、あ~あ、割っちゃった、じゃあまた新しいの買おうね。
と言えるぐらいの値段がいいと思うんです。
使っていて恐くないガラスを作りたい。
伊藤さんのガラスはほとんどが、ビンを溶かした再生ガラスです。
そもそもは花巻の工房に勤めていたころ、不景気で資金が底を尽き
仕方なく使ったのが始まり。
再生ガラスは固まるのが早いから薄く吹くことができず
ぽってりと厚めに仕上がります。
「でも、壊れにくいガラスをつくりたいから
わたしたちには合っているかな、と思って」と亜紀さん。
未菜ちゃんと知花ちゃんがケーキを食べていたのも、お父さんのガラスのお皿。
家族みんなが、いつでも気兼ねなく使え
使うことでほっと気持ちがなごむ。
それが、伊藤さんの目指すガラスなのかも知れません。

ito
 
最初は、ビンを砕いたものを業者から買っていたりしたけれど
いまでは、工房で使う年間1トンものガラスの原料が
自分達の使ったものや口コミで友人知人が持って来てくれたもので賄えるといいます。
が、ひとつひとつビンのラベルを剥がして洗って、仕分けして砕いて
ガラスを吹くまでにいたる行程は、とても手間ひまかかるものです。
でも、長い間、そんな再生ガラスとつきあい続けてきた伊藤さんからは
そんな手間ひまかかる材料への深い愛着が感じられます。
 

 
原料を見せてくださいと言ったわたしに
工房裏に無造作に積んだビンを見せてくれた伊藤さんが呟きました。
「リターナブルのビンは傷だらけだけど、いっぱい使ってもらって幸せですね」
人のために働いてくれたガラスたちに、また新しい命を吹き込みたい。
もしかしたら伊藤さんは、そんな思いでガラスを吹いているのかな。
家族や使う人への愛情や、素材たちへの感謝と思いやりが込められているから
伊藤さんのガラスは温かく、心安らかな表情をしてるのかな。
手に取るわたしたちをやさしい気持ちにしてくれるのかな。

ふとそんなことを思いました。
 
ito


 
工房にて。
手びねりの小鉢づくりを見学。
 

 
窯からガラスを巻取っているところ。
伊藤さんの窯は、一日の終わりに火を落とします。
翌朝7時頃に火をつけ、1時ぐらいから作業ができるそう。



ito
 
伊藤さんのガラスのひとつの特徴である「手びねり」という技法。
もちろん、手でひねるわけではないけれど
道具でツノのようなものを作って吹き、手びねりしたような温もりある風合いを作ります。
 

 
吹いたあと、ころがしながら道具で口を広げて行きます。
(吹いているとことの写真、忘れた~~!残念。)
 


できたら、ポンテ竿からはずして…。
 


底を整えて、徐冷炉に入れて一晩冷まします。
 
 
ito
 
手ひねりの小鉢。
 
2007年訪問

→伊藤嘉輝さんの作品はこちら。

深田容子さんのこと

fukada

2年前の春。1枚の個展の案内が届きました。
作者の名前に覚えがなく、首をかしげつつ
美しい粉引きの鉢の写真に誘われて
日本橋の「ギャラリー開」に出かけました。
はがきの地図を頼りに、路地の2階のギャラリーの扉を開けると
写真で見たやわらかな色味の粉引きとともに
これまで出会ったことのない、黄粉引きと呼ばれる暖かなベージュのうつわが並んでいました。
衒いなく、心になじむ風合いとかたち。お値段も手ごろだったので
すぐに「使い手」モードになって、 さんざん悩んで2点を選び
ようやくほっとして、かたわらで見守っていた作り手に聞きました。
「あの…DMをいただいたのですが、どうしてかしら」。
すると、深田さんが答えました。
「わたし、以前にPARTYさんに伺ってうつわを見てもらったことがあるんです」。

fukada

長谷川奈津さんの知人だった深田さんは、長谷川さんの個展のときに背中を押され
作品を持って来てくれたそうです。
なのに、 そのときのわたしときたら一通り見たあと「また見せてくださいね」と素っ気なかったらしく
さらにそんなことがあったことさえ忘れていたというわけで
おそらくそのころの深田さんは、まだきっと拙かったのだろうとは思うものの
先見性の無さ、うつわやにあるまじき。
恥じ入りながらも、 あらためて深田さんに出会えたことが嬉しく
小躍りする気持ちでギャラリーをあとにしたのでした。
それから、少しずつ深田さんとのおつきあいが始まったある日
茨城県の龍ヶ崎にある彼女の家を訪ねました。
深田さんは染織家の小倉充子さんと古い平屋の一軒家を
住居兼仕事場として、長くシェアしていました。
じつは、わたしが訪ねる2年ほど前、深田さんは結婚していたのですが、
窯を置く仕事場が必要だったため、ご主人もそこに住むことになり、
小倉さんと3人のちょっと不思議な共同生活を送っていたのです。
けれど、それぞれの趣味で集められた古い家具や道具がしっくりなじむその家は
どこか懐かしく居心地よく
自作の土鍋でごはんを炊き、おかずを作る深田さんの暮らしぶりとよく似合い
用意していただいたお昼ごはんをいただきながら
仕事で来たことも忘れるような、緩やかでくつろぐひとときを過ごさせていただいたことでした。

fukada
愛用の土鍋。このふたつで交互にごはんを炊く。ほかにおかず用にひとつ。

深田さんは、北海道の旭川生まれ。
ご両親の転勤が多かったため、中学から高校まで札幌の学校の寮で生活し
その後、女子美短大に入学して上京し、今度はお姉さんとふたり暮しになりました。
その後、ご両親が千葉の船橋に落ち着いたため
「大人になって、やっと家族が揃って暮らし始めたんです」。
全員が、飲むこと食べることが好きな一家の食卓は
いつもたくさんのお料理が並んで賑やかだったと言います。
深田さんの素直で気負いない人との接し方、自然で細やかな気配りは
そうしてつねにさまざまな人たちとの和の中で過ごして来たからかな、などと思います。

大学進学のとき、インテリアデザインをやりたいと美大をめざした深田さんは
予備校に通ううち、
「自分にはデザインよりも、手を使う職人的なことが合っている」と感じ
生活デザイン科に進み、さまざまな工芸を体験します。
その中でもっとも深田さんを引き付けたのが陶芸でした。
「2年生で陶芸を専攻したころには、もう陶芸家になろうと思っていました」。
卒業後、実家のそばの陶芸教室でさらにろくろや釉薬について学び
やがて、アシスタントとして働くようになります。
そうするうちに、学生時代からの友人が小倉さんと仕事場をシェアすることになり
誘われて一緒に窯を持つことになりました。
そして5年ほど経ったとき、その友人が結婚して工房を去ったのを機に自分の窯を買い
リュックに作品を詰めて、あちこちのお店を回り
本格的に陶芸家として始動したのでした。

深田さんが青木亮さんと出会ったのは、そんなころ。
工房をシェアする小倉充子さんが、陶芸家の長谷川奈津さんの学生時代からの親友だったことから
長谷川さんと知り合い、その師匠である青木さんに作品を見てもらったことが
深田さんにとって大きな転機になります。
それまで、きちんと作らなければと、何度もろくろでかたちを整え
縁を切り揃え、均一のうつわを作ることに心を砕いていた深田さんに
青木さんは自らろくろを実演しながら「勢いを殺すな」と、教えました。
肝心なのはお行儀よく揃えることでなく、勢いから生まれる一期一会の魅力。
生き生きとした土の表情やかたち。
だから、いつまでもろくろの上でいじることなく「早く作れ」と青木さんは言いました。
その言葉が、深田さんの気持ちを解き放ち
「飛んだ土が付いたまま焼き上がっても、それが味わいと思えるようになりました」
また、象嵌などいろいろな仕事をしていた深田さんに
粉引きに絞ることを薦めたのも青木さん。
どれもやりたいのはわかる。が、本当にやりたいのは何か。
問われたとき、深田さんはそもそも自分を焼きものの道に引き込んだ
大好きな「粉引き」を選びました。
粉引きで行くと決めた深田さんは
「白い粉引きは好きだったけれど、たくさんの人がやっているので」
試行錯誤ののち、化粧土に鉄分を混ぜたオリジナルの黄粉引きを生み出します。
やがて、グレー粉引きへとバリエーションが増え
深田容子ならではの、ゆたかな粉引きの世界が広がって行くことになります。

fukada

今年の個展に先立ち、再び深田さんを訪ねました。
深田さんは今年、ご主人と工房のある新居を建て移り住んでいました。
高台に建つその家は、大きく取られた窓から仕切りの少ない空間いっぱいに日射しがあふれ
眼下には緑ゆたかな町の風景が広がります。
ふたりで塗った壁は、まだ未完成のところがあるけれど
「発展途上」のときめきが伝わって来ます。


仕事のあと、このソファでビールを飲むのが最高の楽しみ。
 
1階の工房の窓に向かったろくろで、鉢をひいてもらいました。
「勢いを殺さぬよう」深田さんはろくろの手を早く止めます。
また、内側の整形にもへらを使わず、布に粘土を包んだものを使います。
そうすると「手の感覚だけが頼りだから、リムのかたちもひとつひとつ違うものができるんです」。
同じアイテムを作っても、無理に揃えようとしないから
ときに深田さんの作品は、人のイメージを裏切ります。
「前のと違う」。そんな反応に少し戸惑いながら
それでも深田さんはそのときの気持ちや勢いを大切にうつわを作ります。

fukada

「これから粉引き以外のものをやったとしても
パッと見て、深田容子が作ったと思われるうつわを作りたい。」
やわらかな表情で話す深田さんの言葉に、秘められた強さとエネルギーを感じます。

fukada

キッチンの食卓でおしゃべりしながら、深田さんが見せてくれた初期の黄粉引き。
その色は、いまの暖かなベージュとひと味違い「黄」という名がうなづける
元気で新鮮な色でした。
「これもいいね。」
そんな会話から、この個展で深田さんは原点の黄粉引きを再び試みてくれることになりました。

fukada

作るうつわは、自分が使いたいうつわ。
そんな深田さんの大切にする、日々の暮らしから生まれるうつわは
つねに新しい表情を見せて、わたしたちの心をとらえ続けてくれると思います。

fukada

深田さんの新居。 愛車はモトクロスのバイクの部品やウエアの会社に勤めるご主人が
趣味でもあるバイクを乗せるためのもの。
深田さんも訪ねるたび、これで送り迎えしてくれる。

funada

fyjada
愛犬の「なつめ」と「きなこ」。

fukada
洗面台のボウルは深田さんの作品。


洗面所の棚までお洒落。


工房のショーケース。アンティークの棚が、深田さんのうつわにぴったり。


壊れて付け替えた振り子時計の針は、小さくてお洒落。


窓辺には、深田さんが作った愛犬たちの置き物が!

2007年訪問 

 

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